「不登校支援」というお仕事柄、いわゆる「いじめ」という社会問題は避けて通れません。
そして「いじめ」を防ぐ方法に関しては、人類恒久のテーマではないかと思えるほどの「人間の変化」が必要なのではないかと思われます。
『恒久?なにを大袈裟な』と思われるかもしれませんが、「いじめ」の歴史はとても長いのです。
2500年前、仏教の開祖である釈尊(ブッダ)が作った教団でも「いじめ」は存在しました。
ブッダの弟子の一人(大迦葉)が清貧に徹する修行で、大変みすぼらし身なりをしていましたが、彼の真意を知らない他の弟子達からは非常に軽蔑されていました。
このことを知ったブッダは、大迦葉に対して様々な質問を投げかけると、彼は全ての質問に答えることができました。
そしてブッダは多くの弟子たちの前で「みすぼらしい姿をしているようでも、彼の悟りの力は私とほとんど変わらない」と述べ、大迦葉への軽蔑を止めるように諭しました。
つまり仏教のもとになった仏の集団であっても、その中で「いじめ」があったというお話です。
■「いじめ」と「犯罪」の違い
よくあるお話ですが、「いじめと表現せずに犯罪として扱ったほうが良い」という意見をよく聞きます。
私個人としては、まったくその通りと思うのですが、そもそも「いじめ」の定義とはどんなものでしょうか?
下記に文部科学省が出している「いじめの定義の変遷」という資料の一部を抜粋します。
【昭和61年度からの定義】
この調査において、「いじめ」とは、「①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないもの」とする。
【平成6年度からの定義】
この調査において、「いじめ」とは、「①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」とする。なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと。
○ 「学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの」を削除
○ 「いじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと」を追加
【平成18年度からの定義】
本調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。 (※)なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
○ 「一方的に」「継続的に」「深刻な」といった文言を削除
○ 「いじめられた児童生徒の立場に立って」「一定の人間関係のある者」「攻撃」等について、注釈を追加
※ いじめ防止対策推進法の施行に伴い、平成25年度から以下のとおり定義されている。
「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。
長々ですが、これが日本での「いじめ」の定義です。
変遷しているとはいえ、文部科学省では『学校内外で起きている他者への攻撃』を「いじめ」と定義しているようです。
と言うことは、少年法(20歳まで)の枠を超えれば犯罪ということでしょうか。
文章を読む限り、これが成人であれば犯罪といっても過言ではない内容だと思います。
個人的に肝心なところは「自分より弱い者に対して」というところです。
私が思う「いじめの定義」は、『子ども/大人に関わらず、強者が弱者を攻撃すること』です。
ブッダのお話でも分かりますが、大人の社会でも「いじめ」は確実にあります。
皆さんも心当たりあると思いますが、犯罪までには至らない、強者から弱者への「悪ふざけ扱い」で済まされている「いじめ」を目撃しているのではないでしょうか?
大人が「いじめではなく悪ふざけ」の概念を持っている限り、子ども達に「いじめを止めよう」と言っても届くことはないでしょう。
子どもは大人の背中を見て育つのですから。
「いじめではなく悪ふざけ」この一言で子ども達も、それに関与した大人達も逃げれてしまうのです。
旭川の事件はその典型ですね。
■いじめに立ち向かうには強さが必要か?
そんな「いじめ」ですが、これを解決する上で被害者側に「強さ」を求める傾向が昔からあります。
いわゆる「いじめられる側にも原因がある」という奴です。
昔、ある芸能人が自身のトークの中で、「いじめられてる奴は、いじめられたいと思ってるんだよ」と発言しているのを見て驚愕したことがあります。
世間的な知名度もあり、自身の言葉の影響力があるのを知った上での発言か分かりませんが、彼の言葉を聞いて「そうなんだ」と思った人がいるのなら、「いじめ」もしくは「犯罪」を助長するような言葉だと思います。
以来、その方のことが、どうしても好きになれません。
そんな芸能人のトークの中でも、世間的な声の中にも、「やられたら、やり返せ」「それが出来ないなら、いじめられても仕方ない」という強者の理論が渦巻いてるように思います。
恐らく、この『強さ』とは『暴力』という強さなのでしょう。
確かに、『力を持つ』ということは抑止力にはなります。
ただ疾患で力を持てない人達はどうすれば良いのでしょう?
筋ジストロフィーは、身体の筋肉が壊れやすく、再生されにくいという症状をもつ遺伝性疾患です。
この疾患を持つ人は、いじめられても仕方がないということになるのでしょうか。
立場が逆転して自分が弱者となったとき、「私は力がないのだから、いじめられても仕方がない」と納得するのでしょうか。
人間は、それぞれに得意なものもあれば、苦手なものもあります。
いわゆる『個性』と呼ばれるものです。
人間全員が、100mを9秒台では走れません。
人間全員が、微分積分の論文を書くことはできません。
なのに「いじめ」という問題に関して肉体的な強さが求められるのは、単純に都合が良いことだからしょう。
なぜなら、簡単に『被害者側に否がある』ことにできるからです。
「嫌なら、きっぱり断れば良かったんだ!」
「なんで自分の言いたいことをはっきり言えないんだ!」
「嫌だと言わないから、こちらは分からなかった!」
この理論ですっぽり抜け落ちているのは、そもそも加害者側が「嫌なこと」をしなければ良いだけの話です。
相手の感情を汲み取って、物事を判断する心の働きを「理性」と呼びます。
理性の無い人間、それを海外では「サイコパス」と言います。
「サイコパス」を簡単に言うと、「人にやられたら嫌なことは、人にしないようにしましょう」が理解できない人のことです。
個人的に、そんな自己中心的な「強さ」で、いじめは解決できないと思うのです。
■本当の『強さ』とは
子どもの頃からプロレスが大好きでした。
アントニオ猪木さんが居た頃の新日本プロレス、ジャンボ鶴田さんや三沢光晴さんの四天王プロレスを見せてくれた全日本プロレス。
そこにはイメージしやすい『強さ』がリング上に溢れていました。
子どもの頃は、その強さに憧れて体を鍛えたものです。
そんな私の愛したプロレスラーで、高山善廣さんという選手がいます。
彼は身長196cm、日本人にしては恵まれた体で、PRIDEでもドン・フライというレスラーと壮絶な殴り合いを演じたり、プロレスのリングでは高身長から繰り出すエベレストジャーマンなど迫力溢れる、正に「強さ」の象徴でした。
そんな高山選手が、何年も前に試合中のアクシデントで頸椎を損傷し、全身麻痺という状況に追い込まれてしまいました。
その後も予断を許さない状況が続き、表舞台からも姿を消していましたが、そんな彼が今年の9月3日に復帰戦を行ったというのです。
私はこの動画を見て胸が熱くなりました。
そこには、今までの「強さ」の象徴とはかけ離れた高山選手の姿がありましたが、今までとは違う「強さ」を感じたからです。
高山選手の回りには、たくさんの関係者、そして高山選手を鼓舞する観客の姿がありました。
その強さを言葉で表現するのは難しいのですが、あえて表現するなら『人間の絆の強さ』とでも言うべきでしょうか。
そこには「いじめ」とはかけ離れた、人の心の強さを感じることができます。
私としては「いじめ」に打ち勝てるのは、この動画のような『人間の絆の強さ』が必要だと思うのです。